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沉默的多数派5(修)(2 / 2)

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二鎌倉中期以降鎌倉幕府の難儀と後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒

文永?弘安期とは、モンゴル帝国と高麗による二度の日本を侵攻であった蒙古襲来と呼びました。しかし、日本は勝利を得るといっても、さまざま問題もあるので、鎌倉幕府が大きな問題を直面なければならない。

一つ、戦争のため、御家人の困窮した。元軍に大勝した鎌倉幕府は、物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にしたとされる。竹崎季長は鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。

しかし、季長ような人間はやぱり少しであった、恩賞給与がなされなかったのは、異国警固番役、京都?鎌倉大番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、御家人たちが窮迫した、借金せざるを得なくなった、苦しむようになった。それで二つでした。

三つ、借金せざるを得なくなったから、自らの荘園を抵当にするし、最後多分破産でした。幕府は破産の御家人に絶望の中から救いだずため、徳政令を発布した。

でも、新しい問題点があります。徳政令を発布した以降、御家人たちは商人たちに借金できない、そして、御家人の不満は解消できません。

そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。

それで鎌倉幕府の崩壊原因でした。

一方、後醍醐天皇では、大覚寺統の庶流し、父後宇多上皇は、あくまでも邦良を自分の正統な後継者と考えており、後醍醐の即位は邦良が成人するまでの中継ぎでしかなかった。

つまり、後醍醐の子孫は皇位継承権を原則としてありません。でも、院政が再開された後宇多は、元亨元年(1321年)には治天の政務を後醍醐に譲り、そして、当時、後醍醐の地位が「一代主」と表現されている。

そして、後醍醐は鎌倉幕府の力を借り、自分の息子?世良が皇位継承を念願だった。しかしながら、世良親王が夭折し、その野望を破滅した。

自らの立場に納得できない後醍醐の感情は、政務を掌握してからのきわめて精力的な政策展開にも表現されている。これまで歴代の治天が進めてきた訴訟処理機構の整備や迅速な訴訟処理、有為な人材の登用などは当然であるが、後醍醐は、沽酒法(米価?酒価公定令)、洛中への地口銭賦課などの経済政策にも取り組み、さらには洛中酒鑪役賦課令、神人公事停止令、関所停止令などを発して、それまで治天の権限の及ばなかった領域へも積極的に手を伸ばして朝廷自体の権力基盤の拡大をも目指した。

しかし、このような新政策は、当然、既得権を侵害される貴族?大寺社の抵抗や全国統一政権としての性格を強めつつあった幕府の規制を受けて充分な成果を挙げることはできなかった。また、後醍醐は朝廷内部で孤立しており、手足となって働く人材が不足していた。後嵯峨の治世以来整備されてきた朝廷の訴訟処理機構で伝奏や奉行などの役職に就き実務を担う家柄(名家の家柄)を確立させてきた貴族たちは、すでにいずれかの皇統に組織されてそれぞれ主従関係を結んでいた。持明院統に仕える貴族たちが後醍醐に協力しなかったのはもちろん、大覚寺統に仕える貴族たちも多くは「一代主」でしかない後醍醐よりも嫡流の邦良に仕えることを選んだ。後醍醐に仕えたのは、学問や芸能、信仰などを通じて後醍醐と個人的なつながりのあった者や、新たに名家の家柄への上昇を目指す低い家格の家系の出身者が中心だった。

「一代主」の立場を甘受することもできず、自らが理想とする政策を充分に実現することもできなかった後醍醐は、唯一の突破口として武力により既存の政治秩序を根こそぎ破壊する道を選ぶことになる。当時、相続に関して父母の遺言は絶対的な効力を持っており、幕府や朝廷の法廷でも容易にそれを覆すことはできなかったほどである。後宇多の定めた皇位継承プランを尋常の手段で変更することは難しかった。まして、両統迭立が幕府の方針として明確にされている以上、後醍醐の攻撃対象に幕府も含まれることになるのは必然的だったと言える。

しかし、後醍醐の第1次の武力倒幕計画が密告により発覚したのは、これは正中の変でした。計画は事前に幕府に漏れ、参画した者はある者は殺害され、ある者は逮捕されたが、幕府の対応は微温的であり、朝廷関係者では、後醍醐の側近日野資朝が佐渡に配流されただけで後醍醐は罪を問われなかった。

後醍醐と不和になっていた邦良は、正中の変以後、後醍醐を早期に譲位させるようたびたび幕府に請願していたが、正中4年(1326年)に死去してしまう。持明院統の嫡子量仁のほか、後二条が死去した際に立太子の機会を逸した恒明、邦良の同母弟邦省、後醍醐の第1皇子尊良親王らが次の皇太子の座を争い、最終的には幕府の裁定で量仁が皇太子に指名された。邦良も幼い男子を遺しており、彼らも将来は後醍醐の強力なライバルとなり得る立場にあって、後醍醐の「一代主」としての立場は幕府の権威のもとでますます明確となり、後醍醐の倒幕志向もますます強まることになった。

それで、第2次の武力倒幕計画も元徳3年(1331年)にやはり密告により事前に発覚した。今回は幕府の対応は素早くまた強硬だった。後醍醐は予定を早めて武装蜂起(元弘の乱)に踏み切ったが、幕府は関係者の逮捕に着手するとともに、大軍を動員して鎮圧に乗り出し、後醍醐も逮捕されることを避けて京都を脱出し自ら叛乱軍に加わった。京都を制圧した幕府は、本人不在のまますぐに後醍醐を廃位し、皇太子量仁(光厳天皇)を践祚させた。この年8月、京都脱出の直前に後醍醐は元弘と改元しているが、幕府はこの改元も認めず、もとの元徳の元号をそのまま使用させた。まもなく後醍醐は捕虜となり、承久の乱の先例に従って謀反人として隠岐に配流された。計画に参画した皇子たちや貴族たちも死刑を含む厳罰に処された。

PS:嘛,这次是真的拿论文来凑数了,至于改嘛……等我慢慢改吧,现在脑子里都是新书,实在是没有心思再继续写这个。明明三期都还没出场,残念,太残念了。不过也没办法,大约就这样了吧。可能会写一些残破的三期的小剧场。(丧失思考能力的我x)

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